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北野線


後の鳥居は菅原道真を祭神とする学問の神様、北野天満宮(天神さん)です。 「東風吹かば匂いおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」 自邸を紅梅殿と名づけたほど梅の花を愛した道真が、政敵、藤原時平の陰謀により左遷され大宰府へ下向する際の歌です。そのあるじは京の都に戻ることなく亡くなりました。それ以後京都では災厄が相次ぎ、道真のたたりと騒がれ、これを鎮めようと小さな祠を造営したのが天神さんの起こりです。道真の命日の2月25日は梅花祭が盛大に行われます。この頃、稀にみる秀才だった道真にあやかろうと、最後の神頼みとばかりにお参りにくる受験生も多くみられます。
昭和36年7月23日撮影


終戦直後、このカーブを曲がり損ねて鉄橋から電車が下の堀川に転落した事故がありました。強引に運転を代わらせた進駐軍の兵士の仕業だというもっぱらの噂でした。堀川の水質は染物に好適だったようで、江戸時代には、練・晒・張物・湯のしなど染物業者が軒を並べていました。したがって川は染料で赤や黄や紫に染まっていて、その濁りが景気のバロメーターとなりましたが、これとて今は昔の物語。現在の堀川は上流をせき止められ、水の流れぬ川となっています。
昭和36年7月23日撮影


前から3台目の車が「マツダR360クーペ」です。昭和35年4月22日、東洋工業の4輪乗用車への進出第一弾として発表されました。個性的なクーペスタイルは、座席配置を大人2人と子供2人又は荷物という2+2タイプと割り切ったからこそ出来たスタイルでした。エンジンは強制空冷2気筒356cc、16馬力、価格は30万円。スバル360より8万円もの低価格でしたが、1万5千円程度だった当時の大卒初任給から考えると高嶺の花ではありました。キャロルにバトンタッチする昭和41年まで生産されました。
昭和36年7月23日撮影


後の建物は漢方薬・丸岡六神丸本舗です。死亡原因の上位にランクされる心疾患。ストレスの増加、食生活の変化、運動不足など現代の生活習慣が心臓に大きな負担をかけていると考えられます。六神丸は、ちょっとした運動や階段を登ったときに感じる動悸、息切れなどに効果があるといわれています。成分は、麝香(ジャコウ)蟾酥(センソ)牛黄(ゴオウ)熊胆(ユウタン)人参(オタネニンジン)沈香(ジンコウ)で、外国から輸入された貴重な動・植物性生薬が使われています。尚、現在この場所には京都中央信用金庫五条支店が建っています。
昭和36年7月23日撮影



下鴨本通・河原町通・駅前


クリックすると拡大画像がみられます この橋の下を流れているのは賀茂川で、約300m下流で高野川と合流し鴨川になります。古代氏族の名であり土地の名であり川の名でもある「賀茂」と「鴨」。ちょっとややこしいようですが京都市民には一般通念として定着していて上賀茂神社(賀茂別雷神社)下鴨神社(賀茂御祖神社)のように使い分けます。賀茂氏の先住の地であった山城南部には「加茂」と言う地名が残っていて、カモというのはやっかいな名前なのです。後ろの建物は京都家庭裁判所です。裁判官7人、一般職111人(H16.4現在)、家事事件(審判・調停)13712件、少年保護事件(非行等)5681人(いずれも平成17年)を取り扱いました。
昭和52年9月12日撮影


右側の学校がオーナーの母校春日小学校です。「春日」の地名は平安時代中期、今の丸太町通にあたる街路が春日小路と呼ばれたことによります。春日小学校は明治2年12月11日、上京第三十番組小学校として創立されました。その後、春日尋常小学校、京都市春日尋常高等小学校、春日国民学校等を経て昭和22年、633制の新制度により京都市立春日小学校となったあと、平成7年に御所南小学校に統合されるまで、在校生や卒業生に親しまれる校名として126年の長い校暦を受けついできました。 クリックすると拡大画像がみられます
昭和52年5月16日撮影


クリックすると拡大画像がみられます 7月17日は祇園祭山鉾巡行の為、市電は京都駅−四条河原町間で折返し運転を行っていました。
今からおよそ1100年前、清和天皇の貞観11年(869年)に京都に疫病が流行し、退散を祈願したのが祇園祭のはじまりと伝えられています。保元・平治・応仁などの乱のたびに祭礼は一たん途絶えますが、町衆の手によってすみやかに復興するとともに従来にも増して創意や趣向がこらされていきます。山鉾が今みられるような形になり、豪華な飾りをつけるようになったのは、安土桃山時代、京の豪商が南蛮貿易などで持ち帰った舶来のタペストリーや国産最高級の西陣織などが、惜しげもなく競って用いられるようになってからです。このように、祇園祭は1000年の伝統を誇り、京都の歴史とともに歩んできたといえます。
昭和52年7月17日撮影


後ろの建物は昭和27年5月27日に誕生した三代目国鉄京都駅です。初代は明治10年、赤煉瓦のモダンな建物で現在地よりやや北側に建てられ「七条ステンション」と呼ばれていました。二代目は大正天皇の即位式に合わせて、大正3年8月15日、総檜造二階建の立派な駅が出来ましたが、昭和25年火災にて焼失しました。四代目は地上16階地下3階、ホテル・デパート・劇場等が入った巨大な駅舎で、景観論争を巻き起こす中、平成9年に完成しました。ここでクイズ。 どこの駅にもあるのに京都駅にないものは‥。 三代目「京都駅という駅名表示看板」、四代目「1番ホーム」(0番ホームはあります) クリックすると拡大画像がみられます
昭和52年9月6日撮影


七条通


クリックすると拡大画像がみられます 名前の三十三間は堂の柱間の数で、実際の長さは118mあります。この長大さは裏側のほうが実感できます。堂の外には、深い軒の下に幅の広い縁側がまっすぐ延びていて、その南端から北端の的に向けて矢を射通すのが「通し矢」です。記録の上では江戸初期の1606年(慶長11年)には始まっていて、腕に自慢の者たちが矢数を競いました。一昼夜に8133本が通し矢数の最高記録になっていますが、この行事は今はありません。現在は毎年1月半ばに堂の外の広場で、全国から集まってきた弓道家や新成人たちが弓の引き初めを行っています。
昭和52年9月13日撮影


丸太町通


市電が走っているのが東西に伸びる丸太町通です。京都の街中で生まれた子供は、迷子にならぬよう親から通りの名前を覚えさせられます。童謡もどきに節をつけて‥。まず東西の通り18筋から。『まるたけえびすにおしおいけ(丸太町、竹屋町、夷川、二条、押小路、御池)あねさんろっかくたこにしき(姉小路、三条、六角、蛸薬師、錦小路)しあやぶったかまつまんごじょう(四条、綾小路、仏小路、高辻、松原、万寿寺、五条)』といった調子です。南北の通り21筋はまたの機会に。 クリックすると拡大画像がみられます
昭和51年1月9日撮影


烏丸通


クリックすると拡大画像がみられます 赤煉瓦の建物は、日本聖公会聖アグネス教会聖堂です。大阪の照暗女学校が明治28年(1895年)に京都へ移り平安女学院と改称されたとき、その礼拝堂として、アメリカ人J.M.ガーディナーの設計により、明治31年に建築されました。建物は、三廊式バシリカ型平面で、八角平面の洗礼室、三層の鐘塔、司祭室から成り立っています。この聖堂は、煉瓦造の教会堂としては古いほうに属し、ガーディナー設計の初期の作品としても貴重で、昭和60年6月1日、京都市指定有形文化財に指定されました。
昭和49年3月撮影


京都の人は東本願寺を“おひがしさん”西本願寺を“おにしさん”と言います。いずれも公称門信徒1000万人、末寺1万寺を誇る我が国の仏教教団の双璧が、数百メートルを隔てて軒を並べるのも京都ならではの風景といえます。本願寺の勢力増大を恐れた徳川家康の宗教政策によって東と西に分けられた“兄弟宗派”です。それだけに教典はもとより、重要な法要儀式の作法、ハトの群れ飛ぶ境内の雰囲気など何から何までそっくりです。このため、地方から来られた門信徒が、逆のお寺に参拝するといった笑い話が絶えないそうです。 クリックすると拡大画像がみられます
昭和49年3月撮影


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