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今出川通


クリックすると拡大画像が見られます   熟睡したことをいうのに「白川夜船」というたとえがあります。京を見たふりをする者が白川のことを聞かれ“夜船で通ったから知らぬ”と答えて笑われる古い話から生まれていますが、じつは川の名として白川は存在します。白川は、比叡山と如意ケ嶽に源流を発し、この写真のすぐ南にある吉田山の東麓を流れ琵琶湖疎水へそそいでいます。洛東の山の地質は花崗岩で、そこから流れてきたのが京の社寺の庭に欠かせない白川砂です。手前の石仏は鎌倉時代から鎮座していると伝えられ人々の信仰が厚く、花売りの白川女は必ずここに花を供えてから商いに出るそうです。
昭和51年3月28日撮影


後の山が如意ケ嶽で、8月16日夜、京の夏の風物詩、五山送り火“大文字”が点火されます。送り火は盂蘭盆の宗教行事で、精霊を送る火であると考えられています。昔は、市原野に「い」、鳴滝に「一」、北嵯峨に「蛇」など多彩だったようですが、精霊船といわれる「船形」、法華信仰の証の「妙法」など信仰の火とおぼしき五つが残りました。この橋の上は“大”の真正面で見物の特等席になる為、早くから人で埋ります。大文字が終わると京都はもう秋です。   クリックすると拡大画像が見られます
昭和51年3月27日撮影


クリックすると拡大画像が見られます   同志社は明治8年、新島襄が寺町丸太町上ル(新島旧邸の地)の借家で同志社英学校を開校したのに始まります。翌9年に相国寺門前の薩摩藩屋敷跡(ここは、有名な薩長同盟が結ばれた歴史的スポットです)に校舎を建て移転し、37年同志社専門学校、同45年専門学校令による大学になりました。今出川キャンパスには、京都市内現存最古の煉瓦建築“彰栄館”、急勾配の切妻屋根に造形された“礼拝堂”など重要文化財の指定を受けた五棟の煉瓦造りの建造物を始め多くの洋風建築がみられます。
昭和51年3月31日撮影


応仁の乱の際、西軍の山名宗全が陣を置いたところから、この地域一帯を指して『西陣』の名が起こりました。右の建物、西陣織物館は京都市登録有形文化財として保存がはかられ、現在は京都市考古資料館として活用されています。この付近には多くの銀行が支店を構え西陣の経済の中心となっていましたが、西陣織業界の低迷と共に店を閉め始め、最後まで残っていた、みずほ銀行西陣支店も平成17年2月に撤退し完全になくなりました。尚、この店舗は銀行建築の名手といわれた西村好時氏設計で、正面に列柱を配置した格調高い建物でした。   クリックすると拡大画像が見られます
昭和51年3月31日撮影


東山通


クリックすると拡大画像が見られます   京都女子学園に近く、登下校時は女の園となり賑やかでかつ華やかな雰囲気を持った停留所周辺でした。市電はバックの智積院の白壁や石垣とよくマッチしていました。緑豊かな京都らしい風情のある交差点の光景は今も変わりません。智積院は真言宗智山派総本山で、書院、方丈の東庭は江戸初期の築造当初の姿がよく残っています。
昭和53年9月19日撮影

                                   

初詣、円山公園の花見、音楽堂の土曜コンサート、大晦日のおけら参り等いつも人の絶えることのない停留所周辺でした。日本三大祭の一つ祇園祭は後の八坂神社(京都の人は祇園さんと呼ぶ)の例祭です。写真の西楼門は、大正元年、四条通に市電が走るようになり、解体修理のあと東(後)へ6mほど移動し翼楼がつき現在の姿になりました。   クリックすると拡大画像が見られます
昭和53年9月26日撮影

   

クリックすると拡大画像が見られます   京都市電の前身、京都電気鉄道竃リ屋町線(七条停車場〜岡崎)は明治28年4月1日、写真の左側、岡崎地区一帯で開催された第四回内国勧業博覧会会場まで開通し、足となると共に呼び物の一つとなりました。会場は閉会後払い下げられ、美術館、図書館、勧業館等が建設され、市民の文化の憩いの場となっています。
昭和52年9月26日撮影

                   

東山の山並みと平安神宮の森をバックに疎水に架かる徳成橋を渡るところです。この付近を聖護院といい、八ツ橋と京野菜のかぶらで有名です。京野菜が堀川ごぼう、壬生菜等地名を冠して呼ばれ名産としてもてはやされるのは、栽培が小規模で丹精こめて育てられたことによります。しかし、都市開発でいまやその名ばかりで、全く関係の無いところで栽培されています。   クリックすると拡大画像が見られます
昭和53年5月23日撮影

北大路通

  大正14年、烏丸線の延長と同時に開設された京都市電最大の車庫で、配置車両も昭和42年には115両と全車両の3分の1を擁していた。受け持ち系統は4、5、6,13、15で系統板の地色は緑、昭和53年の市電全廃まで営業を続けました。車庫の2〜3停留場手前にある系統通知信号機により運行状況が把握され、車庫前では、しばしば系統変更、入庫などが行われました。系統が変更、打ち切りになり「電車乗継券」をもらって電車を乗り換えたことも懐かしい思い出です。車庫の跡地は一時地下鉄烏丸線の車庫となり車両の搬入が行われましたが、のちにショッピングセンターとなり、昔日の姿がどこにも無く寂しいかぎりです。
昭和53年9月25日撮影

西大路通


8月16日夜、夏の夜空をいろどる五山送り火。祇園祭とともに京都の夏を代表する風物詩の一つで、後ろの山が「左大文字」です。8月15日と16日午前中、金閣寺門前で家内安全・無病息災の護摩木と割木の志納受付が行われ、午後7時頃、法音寺の親火台で護摩木が焚かれ点火法要が行われます。その火で親火松明1基、手松明約40本がともされ、火は山上へと運ばれ送り火が点火されます。(点火時刻午後8時15分、火床53、薪数350本)  
昭和52年9月15日撮影


  右の電車は京福嵐山線です。私鉄とは叡電前(京福叡山線)東山三条(京阪京津線)四条京阪・七条大橋・稲荷(いずれも京阪本線)と数多く平面交差していました。叡電前からは宝ケ池競輪場へ直行の市電が乗り入れていたことがありましたが、ここも連絡線を設ければ、京都駅発嵐山行の直通電車が走らせられたのにと思ったものです。ノーベル化学賞を受賞された田中耕一氏が勤務されている鞄津製作所はここから西へ約300mのところにあります。
昭和50年12月3日撮影

九条通

後の塔は東寺の五重の塔です。21日は東寺(弘法さん)の、25日は北野天満宮(天神さん)の縁日で、ともに大勢の参詣者で賑わい、無数の露店が境内・外を所狭しと埋め尽くします。なかでも、1月の初弘法、初天神と12月の終い弘法、終い天神は殊に賑わいます。 「弘法さん、おまいりやしたんどすか」「へえ、あんたはんも‥、えらいぎょうさんのお人はんどしたなあ」。 だが、口さがない京雀は、弘法さんと天神さんは仲が悪いといいます。“21日が晴れたら25日は雨が降る”などと言い伝えられているのです。  
昭和53年9月19日撮影
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